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技術継承の重要性とその背景

作成者: 柳原 智 氏|2025/06/26 7:13:53


はじめに

1980年代、日本の製造業は「世界の工場」として一世を風靡しました。自動車、家電、精密機器。どれもが世界トップレベルの品質を誇り、その裏には、現場で働く無数の技能者たちの存在がありました。寸分の狂いもない加工、微細な調整、熟練の勘による不良検知――。いわゆる“職人技”は、競争力の源泉であり、品質神話の象徴でした。

ところが今、こうした技術が、目に見えないかたちで失われつつあります。

先日、あるニュース記事が目に留まりました。『しんかい6500がもう製造できない』との衝撃的ともいえる見出しです。しんかい6500は1989年の完成以降、今日に至るまで1500回以上にわたり深海調査を実施している、日本で唯一の大深度有人潜水調査船です。深海の数百気圧に及ぶ水圧に耐えるには、緻密な施工とすり合わせの技術が必須で、まさに技術力の結晶ともいえる産物です。長期にわたる運用で老朽化が進んでいるのですが、新たに同様の機体を製造しようにも、当時の熟練技術者の“技”が失われており、もう製造できないという。まさにこの記事は、「技術継承という見えない危機」が着実に近づいている象徴的なものではないでしょうか。

「今月で定年退職する社員がいてね。あの人しかできない加工がある。マニュアルもない。代わりもいない。本当に困ってるんだよ…」

これは、ある中小製造業の経営者の言葉ですが、このような話は、もはや一部の特殊な事例ではありません。全国の工場や製造現場で、「あの人がいなくなったら終わり」という工程や技術が今や数多く存在しています。

本コラムは、全6回にわたり、日本の製造業における技術継承問題を取り上げ、その背景や解決策を掘り下げて考察していきます。製造現場で今何が起こっているのか、今後どうなるのか、そしてどんな手が打てるのか、具体的な事例や最新の情報も交えながら、技術継承について考えていきたいと思います。

数字では測れない「技術」という資産をどう守るか

失われゆく「技術・ノウハウ・経験知」と、その継承への提言

企業の資産といえば、一般的には設備や建物、特許、売上などの“目に見える”ものが思い浮かびます。しかし、製造業の真の資産は、現場にあります。とりわけ、人に宿る「技術」「ノウハウ」「経験知」といった目に見えない資産が、企業の競争力そのものを支えています。

その資産が、言語化されることなく、記録されることもなく、人の退職とともに失われているのが今の日本の現実です。ではなぜ、継承されないのでしょうか。

「若手に教える時間がない」「教えてもすぐ辞めるから無駄になる」「感覚の世界だから、言葉では伝えられない」「昔は見て覚えるのが当たり前だった」現場からは、こうした声が聞こえてきます。そこには、忙しさや人材の流動化、教えることへの不慣れ、そして“時代の変化”への戸惑いが存在しています。

かつては、先輩の背中を見て、技術を盗み取り、時間をかけて身につけていく文化が根付いていました。しかし、今の時代はそれでは通用しません。短期間で成長を求められ、成果が可視化されることを前提とした働き方のなかで、「見て覚えろ」は限界を迎えています。

では、今、私たちはどうすればよいのでしょうか。
まず必要なのは、この問題を「技術者不足」や「教育の問題」として片づけるのではなく、構造的・戦略的な経営課題として再定義することです。その第一歩として、本稿では、「なぜ今、技術継承がこれほどまでに重要なのか?」という問いに立ち返り、背景にある社会的・産業的な構造を明らかにします。

技能者の高齢化と構造的要因

進行する高齢化:製造業の現場は“シニア化”している

『2024年版 ものづくり白書』によると、2023年時点で製造業全体の就業者数は1,055万人。このうち65歳以上の就業者数は約90万人で、全体の8.5%を占めています。2002年からの推移をみると、若年層(34歳以下)は約384万人から255万人へと約33%減少する一方、65歳以上は約58万人から90万人へと約55%増加しており、高齢化の傾向は顕著です。これにより、「現場の主力が高齢層に移ってきている」「次世代育成が間に合っていない」という“技術継承ギャップ”が構造的に発生しています。

若手が育たない本当の理由:構造的な入口の狭さと育成の課題

白書では、若年技能者の減少についても警鐘が鳴らされています。製造業全体に占める34歳以下の割合は24.5%(2023年)で、全産業平均(31.4%)を下回っています。背景には、工業高校や高専など製造業に直結する教育機関の志望者数の減少、ホワイトカラー志向、将来のキャリアが見えにくい環境などがあり、若年層が製造業を選ばなくなっているという構造的な入口の狭さが影響しています。

また、多くの中小企業が、若手を採用しても十分に育成できず、数年で退職されてしまうという課題に悩んでいます。その背景には、現場に教育を担う余裕がないという根本的な問題があり、本来、技術継承は時間をかけて人に寄り添いながら行うものですが、生産ノルマや慢性的な人手不足の中で、ベテランが教育に割ける時間はどんどん削られている現状があると推察されます。実際にバブル崩壊以降、多くの企業では経費削減の一環として、社内教育やOJT体制が縮小されてきました。特に製造業においては、「まずは現場に慣れろ」という形で、新人が十分な導入研修もないまま実務に入るケースも目立っています。

また、若手側の意識にも変化が見られるようです。かつてのように「何年かかっても技術を習得しよう」という姿勢は薄れ、「何を学べるか」「自分の成長が実感できるか」が重視される傾向にあり、こうした価値観の違いが、ベテランと若手の間に“無言の断絶”を生み、継承の壁として立ちはだかっているのです。

人がいても技術が足りない時代へ

このように、単なる人手不足ではなく、“技能空白”という構造的な課題が、すでに多くの現場で顕在化してきています。人はいるが、その人たちが担える技術がない。伝える仕組みがない。つまり、「仕事ができる人」はいても、「技術を支える人」がいない状態です。これは製造現場にとって致命的です。なぜなら、製造業の競争力の根幹は、設備やマニュアルではなく、現場で起きる“判断”と“工夫”の蓄積だからです。

OJT指導、マニュアルにはない本質的なコツ、育成に対しての時間的・心理的余裕、これらが複合的に絡み、技術が人の頭の中でしか存在しない状態=継承されない技術が増えていくのです。

技術継承の問題の本質

この技術継承における問題の本質は、「一見して問題が見えにくいこと」にあります。たとえば、ある技能者が定年を迎えるまでは、工程が回り、品質も保たれます。しかし、退職と同時に、「この作業は誰にもできない」「なぜできていたのか分からない」という事態に直面します。すなわちこれは、「遅れてやってくる危機」です。すぐには表面化しませんが、5年後、10年後に確実に現場力の低下という形で顕在化します。現場力が落ちれば、製品品質が下がり、不良率が上がり、顧客の信頼が失われます。つまり、技術継承の問題は、企業の存続に関わる経営課題なのです。

本稿で取り上げる「技術継承の問題」は、単なる現場教育の問題ではありません。日本の製造業全体の未来、さらには国の産業基盤そのものに関わる重大なテーマです。これは、個人の努力だけでは解決しません。高齢化が進む中で、若手人材の採用・定着・育成をセットで捉え、教育環境・評価制度・働き方そのものを再設計することが求められています。それは決して“甘やかす”ことではなく、技術を未来につなぐ“仕組みをつくる”ことです。

  • 高齢化による技術者の大量退職

  • 若年層の現場離れと採用難

  • 属人化した技能と継承手法の欠如

  • 長期的視点を持てない現場環境

  • 技術資産が“消えていく”構造 

これらを踏まえ、今後のコラムでは、暗黙知の問題、OJTの限界、IT・デジタルによる継承手法の進化、若手育成とモチベーション、そして実際の成功事例などを通じて、未来の技術継承のあり方を考えていきます。

最後に

熟練技術者の大量引退が目前に迫る今こそ、技術継承に本気で向き合うタイミングです。その場しのぎの人員補充ではなく、“技能を育て、伝える現場づくり”こそが、次世代のものづくりの土台となります。属人化の排除、教育制度の再設計、デジタル技術の活用――技術継承の未来は、私たちの現場改革にかかっています。技術立国・日本。その真価が問われる時代に、現場から再び技術を育て直していきましょう。